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日本留学签证误区

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发表于 2013-6-6 23:51:03 | 显示全部楼层 |阅读模式
误区一:国内成绩不重要. Q2 E3 }: L# k
很多申请人都误认为,反正要出国留学,国内成绩就无所谓了。其实,日本的东京、横滨等很多地方
  v; g9 s# b- T% w/ E8 p,已经强化了对留学生成绩的考核。很多院校会以留学生在国内的成绩,来判断学生的学习能力。从
- {' v0 a, w4 V8 g4 r递交材料方面来看,日本方面与中国教育部已达成协议,对投递者的高中生毕业成绩、会考成绩、高
: u( z6 _/ h/ x% _- x3 K考成绩进行认证。成绩不同,学生申报学校的档次也会不同。
  N3 J/ J# u0 J! H. R6 A2 I
9 o6 m1 S% c* N2 f误区二:学了语言就有日本大学的入学资格
9 h8 D) I3 n$ ]# l部分申请人还存在着在这样的误区:自认为在国内念完高中,到日本学几年的日语后,就可以直接进3 h* c$ d* D$ @" x7 J4 B
入日本大学就读了。
& }. C, i3 ]3 s- \0 p其实不然,留学日本必须有一定的语言能力以及必须达到相应的符合进入日本大学就读的入学资格,  E. S% W. U+ k$ [& R9 L3 R4 h
这两个条件是并列的,不可以相互取代的。1 ~. `# R3 q+ k5 V9 h

$ g+ G, Z" i# S2 {7 ^误区三:在中国没考上大学就到日本
2 R# t; L: A/ n- o8 L* ?% g* H并非如此,到日本留学其艰苦性远远超过在国内。目前已有不少中国留日学生未能完成学业被困在日( \1 Q8 J$ E% |3 E4 l
本的语言学校或专业学校;而且到日本留学也必须满足入学条件。
1 S7 y( m* M4 s. S& C7 }! K5 B$ A: h* H3 I+ b
误区四:国内学不学日语无所谓' V3 I# J2 X( s# B
很多申请人对国内的日语培训课程不够重视,他们认为,在国内学不学日语是无所谓的,都觉得可以2 f- h8 [# O; ~+ W9 n6 o
先去日本的语言学校学日语,然后再申请就读学校就可以了。其实不然,即使入学日本语言学校申请5 z1 D: H$ _1 |2 y2 U  i+ d7 V  C/ g  J( a
人也需要在国内学习日语的学校开具一定的课时证明;但是,由于具备开具课时证明的学校太多,再- h8 V( q% [( @) J/ b3 u
加上学校管理不够规范,所以这种证明的可信度有限。
) j* z/ i) r2 Z+ l, N; X: o( @目前日本的大学对留学生的日语水平有了比较高的要求,申请人必须具备一定的日语水平才能入学日/ O/ g9 \7 g% X% u8 o9 C
本大学。专家建议准备留学日本的申请人参加J.TEST考试,这项考试是由日本国日语鉴定协会--
9 T1 H7 x/ C4 ?1 J7 S2 PJ.TEST事务局于1991年设立的,是日本教育部门认可的一项考试,专门针对母语为非日语的人士。自) p9 Q) b* V  q7 S
2008年开始,每年将有6次考试机会。
+ X  x( R: }/ [" v0 |当申请人的日语达到二级水平,就可以直接申请日本短期大学或大学,这样还可以提前完成留学日本
  U0 u, h0 b9 _% s" _6 t的学习计划。( `/ f% Q/ ]* |% h! T- ^, o

+ l# S7 A6 a& U8 J0 |1 R误区五:认为有钱就可以留学! R5 _7 i$ x& T% d( O$ _
很多申请人都认为,只要家里有钱就可以留学,这是一种不对的认识;反之,即使没有经济实力也能( y6 v* M6 u2 P$ h
留学,也是不正确的.. ?3 d: A* z6 T+ _: F& r
实际上,留学所需要的经济担保并不是走过场,而是要求留学生提供父母经济收入的完税证明以及税) U; Y6 h. u* ^6 r3 F
务部门出具的纳税证明,并要求递交父母3-5年内的收入合计,这对于很多中国留学生来说是相当困
0 o% z4 ~% E3 t- @难的。专家建议申请人应该冷静计划,多考察、多选择,不一定非要往热点区域扎堆。
9 l0 y1 x* o. F( k( f6 m$ u6 j
9 v3 A, W0 {/ n/ Z/ E4 x9 X# R误区六:有"在留资格认定证明书"就能拿到留学签证4 N: I5 S9 o5 t/ T& D
有在留资格认定证明书,未必就能拿到留学签证。签证官在决定签证的时候,会非常关注申请人的日
7 m: t/ i7 Y$ S4 j: Z$ U语学习能力和学习意志。有的申请人连基本的日语日常会话也不能应付,就很难使签证官相信他有能. N7 T* {# X2 w" J3 g! }" B
力在日本学习;有的申请人没有明确的学习目的,只是以留学为借口到日本打工,这样也很容易被签  w" k% M. v0 l9 k
证官拒签;有的申请人没有充分的经费证明,使得签证官怀疑其在日本留学的经济能力,从而遭到拒
. }0 ?# L' E( s! b! U" K' o签;赴日留学签证银行存款证明虽然没有存款时间长短的限制,但在申请"在留资格认定证明书"和申
$ X& p! u+ D! Z5 r8 |6 Y请签证时都要被参考。还有一些申请人的材料被使领馆发现有错误或者不真实,也会遭到拒签。这也
& o9 X6 E4 [- T" |; [0 r就是一些申请人虽然取得了"在留资格认定证明书"却没有拿到签证的原因。
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发表于 2013-7-18 16:10:40 | 显示全部楼层
魯迅の日本観( g# l: |! n# U3 O1 X% K
―― 日本留学を通しての日本認識 ――
/ J8 \& n- R) a2 `' i- V4 O% h: z # A  L- K- V: L2 M, F
孫 長虹1 ]0 p  q0 R/ A9 S; ?
0.はじめに
0 x8 _1 m" e: S$ H9 ]4 q 二十世紀初頭の中国の日本留学経験者といえば、「藤野先生」を書いた中国の
, E6 l: ?9 t5 e/ C近代作家―魯迅が、その代表的な人物であると言える。魯迅の文章は日本でも2 U9 Y  W6 [( V* `' d/ x
よく知られているが、しかし魯迅自身の日本または日本人に関する文章は、そ
5 b( M) r# ^- R! C! Q+ a8 lう多くは残されていない。- F: Y3 R" A3 |( K
7年間あまりの日本留学経験をもつ魯迅は、生涯忘れられない藤野先生との* K, }8 _- L1 D# n3 ^; _' }
出会いがあった。また日清戦争の敗戦によって、日本人の中国への蔑視という
) W2 C- o5 P/ L" D' D6 S$ _. B風潮の中に身を置き、そして中国人の肉体の病を救う医学の勉強から精神的病
+ J1 j3 g9 L9 C, h) U7 v8 Y, T) Gをなおす中国国民性改造のための文学に志を転換した。/ m6 N' C$ B& R5 i1 C; \' J
日本留学をとおし、魯迅はどのように日本を受けとめていたのか、魯迅の日9 [! \+ x9 C$ T$ C' Y
本認識はどのようなものだったのか、さらに日本での異文化体験を通して、い8 C) Y7 `$ G" y
かに自分自身(自国)を見つめなおしたのか、魯迅の日本との関係に関する先
0 u0 ^5 l6 C$ C3 e行研究1
, [$ _- z1 c2 {. Y0 Xをふまえて、魯迅の日本留学を通しての日本観を探ってみたいと思う。! Q! P: C/ E- y$ V, y& C
1.魯迅の日本との出会い
7 |+ B8 w0 s6 o4 d1902 年 4 月、魯迅は二十歳の若さで両江総督劉坤一によって、官費留学生と2 h; @+ f6 l/ _( S5 x
して派遣され、日本に渡った。そして 1909 年の 8 月まで、日本に滞在していた。
- Q6 D9 v2 C9 L; p1894 年に勃発する日清戦争に敗れた中国は、明治維新に成功した日本を改革. H8 k6 W6 t5 F, E
のモデルとし、日本の政治的経済的近代化を学ぼうと、1896 年に、清朝政府は, H. P; H8 n  e
最初の日本への中国人留学生を 13名派遣し、中国人の日本留学の幕開けとなっ
8 P/ `; i  K0 c& _* g3 G/ ~) H% Pた。以後、年々増加し魯迅が留学する年に六百人あまりになり、1906 年には
1 a/ C; {4 p% i, [, E" P7 |: M; Z12,000 人にものぼった2
* h( ^' {. v: i+ M5 n, `0 n9 D6 r  F& \( u) }/ w  a. d1 O* m
その時、来日した中国人留学生は、日本で学んださまざまな知識や思想を身0 w7 g. N2 j0 k: o2 T$ R
につけ、辛亥革命において大きな役割をはたすとともに、数多くの日本書を翻50 孫 長虹
& b4 J  J9 ^6 e3 l訳して、中国に紹介し、中国の近代思想の発展に大きな貢献を行った。その一/ ~3 l" k( A2 d, Q3 K
方、留学生は日本での生活において、多くの精神的苦痛を味わったようである。
; W+ s" P, h* a3 G: z, s! N3 E清朝は満州族の弁髪を漢民族に強制していた。日清戦争後の日本は、清国の敗
7 t9 t9 ]% G* B" w8 @戦、さらに福沢諭吉の「脱亜論」の影響もあり、中国人に対する蔑視観が強ま
3 V0 U" X6 l' _って、その弁髪は「チャンチャン坊主」といってひやかしの種とされた。1896$ a) v! L7 e& F, R2 d6 B" c) W
年最初に来日した13 人の留学生のうち4人が、日本の子供からひやかされ、日
' d' w* [; N# F" U. M7 }* Q本食が口にあわないなどの理由で、三週間後に帰国した。) J- y% p! r6 G: m+ e1 Y
日露戦争後の 1905 年から、中国人留学生が急激に増加してきた。彼らは近代9 W5 n2 d8 p) R- b6 R
日本において、懸命に新知識を吸収し、後にこの中から中国の発展に大きな貢
& v) b6 b% j  M献をもたらす人材が数多く輩出した。しかしまた享楽に走ったり、無為に日を
9 t. b- d7 T  b/ @; m1 Z送ったりする人も少なくなかった。
' P% K4 j5 e7 Y6 m, d このような時代的背景のなかで、魯迅の日本留学はどのようなものなのか、
  S* \# t' U$ t3 J魯迅自身の数少ない日本留学に関する文章「藤野先生」、「『吶喊』自序」、「范愛2 X# S  v+ I  {% G  M& W0 M7 u* i
農」や、魯迅の親友である許寿裳の『亡友魯迅印象記』『我所認識的魯迅』、弟# e! m( o2 S2 Z9 h! ~9 R4 m
周作人の回顧録『知堂回想録』3* L- c. _, |* x# V- _# t
、などから当時の様子をうかがうことができる。) w, m; D- H4 {9 I+ q. n
当時、清国留学生としての魯迅が在籍していた弘文学院の留学生の半数以上
* N) J6 ?, u- b# r; eは、首都の北京警務学堂から派遣された「北京官費生」である。大部分が八旗
  w# Z4 _6 {" F) O( V2 J3 W(満州族)出身の彼らは、長江流域の各地からやってきた総督派遣の留学生に
* r5 P+ Q% Q% b6 p1 bくらべて、身分にも処遇にも目に見える差がある。また、弘文学院の校長であ
1 f2 G7 m# v1 S4 ]る嘉納治五郎は、中国の国体は、「支那人種」(漢族)が「満州人種」(満州族)
" B% s( s: k. U' ^3 F. c: n6 }0 jの下に臣服することで成り立っており、ゆえに「支那人種」の教育は「満州人
1 Y, ~( @5 ]8 T+ Z* z1 f5 O- q種」に服従することをその要義とし、これは民族の優劣によるものなのである4
5 v# R: G- ~$ T' ~; e- o) V- _- Kとした。このような中国国民性に関する論調は、当時弘文学院に在学中の魯迅) ]- |: P+ B+ i0 _9 b  R
と許寿裳の国民性論議に直接的な影響を与え、魯迅を含めた弘文学院の漢民族: y7 w4 `3 G  I/ a1 {' L1 x
留学生は自分が奴隷教育を受けているのだという思いを払拭することができな
. G1 u! `+ D1 Z0 K+ {0 D7 }かった; N7 C% V# _# T
5
, |# D. E& G! ]. O9 ^
/ y$ s6 L. ~) K8 u; N( C" @許寿裳の『亡友魯迅印象記』6
5 }5 n. H$ n* T, |+ G! D) Aによれば、魯迅は乗馬好きで、当時南京鉱路学
8 U9 B3 [9 P9 s& G# @; S' M8 k堂で勉強していた時、友人とよく一緒に明の故宮を馬で訪れた。故宮は満州人
( s( s% R( W/ ], h' s+ J守備隊の駐屯地になっていたため、漢人が馬などで行くと、いつも侮辱を受け
, r9 A  U( c; Uていたと、怒りの収まらない口調で語ったという。その時から清朝の異民族支
9 s# m0 d' h! M% e$ u配に対する反撥を抱くようになったのではないかと思われる。そして、日清戦; o& M4 k/ S, G
争は支那が負けたのではなく、満人が負けたといって、更に仙台在学中、水戸魯迅の日本観 51
- s2 f* F; p1 F( h2 W% Z: w1 T2 Rにある明の遺臣朱舜水の遺跡を訪れた時、泊まった宿の帳簿に「清国」と書か
; i  c. O& R( ~  m% E1 D: Kず、わざわざ「支那」と書いたという7
, G3 C- c' V& O% o; T1 i, j5 Z。また、留学時のことを回顧する『范愛
- J2 }4 D' _& d& A+ J7 t農』の中で、「天下に憎むべきものは、最初は満人だと思っていたが、……」8  L$ q* p. l6 m$ K# p1 }" U
という一節もあって、魯迅自身の清朝に対する反撥が推測できる。
% [. F1 D# S/ k! p" E7 R% Aしかし、当時の中国人留学生の多く(主に漢民族の留学生)は、魯迅の「藤% ^, v1 f9 s( \3 d1 g  k: L% T
野先生」の冒頭に書かれているように、清朝の象徴とも言える弁髪を切らず、, j, |2 z+ @# C! B8 d* n  R
頭の上に巻き上げ、その上に帽子をかぶるため富士山のように見え、日本人か
6 |4 E2 F$ {$ k+ f1 Uらひやかされながらも、ダンスの練習に熱中する無頓着な振る舞いに対し、魯; k" s8 o2 ^* E" D3 O( W
迅はかつて自分が退学した南京の江南水師学堂の「烏煙瘴気」にたとえ、失望, s, ~; c" Q6 |6 d7 x" v5 v& G
と孤独を感じた。留学生の大部分は、法律・経済を学び、国に帰って役人になる5 P( O  s0 Z6 l3 F
ことを目的としていた。革命を唱える留学生の中にも、革命そのものよりも革
# T! f3 k6 @# G8 I5 \0 t  P& V命後の新政府で重要ポストにつくことの方に関心のあるものが少なくなかった。
# w# T5 R# ]" ?1 L" f* i魯迅はこういう実利主義的な留学生を軽蔑しており、こういう連中に会うと、1 A! O% d' z; c* Y5 z' ~
いつも腹を立てて悪口を言っていた、と弟の周作人は書いている9) [7 B& V: F5 r4 I  y. U
- `' J4 m& _8 b& d, T: x4 y) _! H
日本における漢族留学生の民族的自覚あるいは民族的自尊は、おそらく彼ら, p: h9 g: j/ A9 R
満州族留学生が身近に存在していたことによっても、より鮮明なものになって( X3 t2 P& g* R: q' V
いただろう 10$ g6 [5 ~  F* M" g: L
。魯迅は許寿裳と国民性の欠陥とその病根などについて交わした議4 ^9 i: F) Q  C
論は、漢民族にもっとも欠けているのは、誠と愛であって、最も大きく深い病0 M' t( y9 |# `/ T% ^
根は、二度も異民族に征服されたことによると、認識している。9 k- s2 m% w' r) z( C
江南(浙江)出身の魯迅は、漢民族としてのプライドを持っていたと思われ
, [0 |* O. o( L3 Q2 oる。1903 年に書いた「中国地質略論」11 において、北方の人々は外人の侵略、
3 e% ]- B0 f  A$ _1 w  c圧制に対し反抗を示さず、祖国に対する愛などは期待できないのに対し、浙江4 L. ?8 s! @: l4 s  f* I7 i
の人々だけはそうではない、と排他的愛郷心、郷党意識を持ちながら、民族意
' N$ v; ~2 _. [4 o* ~4 p+ ]% c識を強く打ち出している。しかし、魯迅はこのように民族のプライドを強く意
4 e; c: L8 S1 J5 k6 O: e識する一方、日本における中国人留学生は、自分の意識するものと程遠い存在; X0 n% L  K! o7 p
であると感じていたに違いない。漢人にとって屈辱の象徴とも言える弁髪を残1 H! Z" k/ @. x4 W2 l8 W6 h
して、無頓着な振る舞いをする自国の留学生は、江南出身の魯迅にとって我慢
& I" S% \9 x4 C3 W) _& V) n: ~できなく、異国という従来とちがう環境の中で、自国―特に漢民族の弊害を強
, n" z8 T/ w+ h8 ~5 Y* _' x5 yく認識するようになり、そして“立人(人間の確立)”という自分の思想の柱と
  H# H  @! L+ ^' Y  u5 ^なる理念を打ち立てるようになったのである12
  d! H& s7 e0 c+ N: Q1 o+ y1 ?8 m+ G7 a3 L" E" k) |
魯迅は国民性改革を強く意識するようになると同時に、当時の他の留学生よ
9 P. J5 |2 }# R! w5 W# A& [り「富士山組」のことを敏感に感じ取り、反感を覚えた。そして、魯迅のこの52 孫 長虹# I0 d) g( W. r9 o+ S3 Y. K
ような同国留学生に対する気持ちが、同国留学生との間に隔たりを作った。小
" P+ k6 h. u& g: `説「范愛農」(1926 年)には、日本に着いたばかりの同郷の人々を迎えに行ったこ
/ w  F7 I0 q$ S' \+ E6 ]5 t0 tとが述べられている。彼らの荷物から刺繍の纏足靴が出てきたり、また汽車の
, E2 E. s$ R7 p, M2 w中での座席の譲り合いで将棋倒しになったりし、魯迅が彼らに対して腹を立て& D  s, Q3 x& ~( U
嫌悪しているのを察知され、嫌われたということもあった13
  m% k* L7 q: z3 M% g$ r! H9 z& c. |) K4 i  r$ u6 ~) r( j
弘文学院で魯迅は、一般教科はすでに習得していたにもかかわらず、また速/ u+ ]$ d  t  y7 g) |( ~7 X
成班の人たちと一緒に授業を受けなければならないのが実状であった。魯迅は3 U6 h3 ^" p6 G
南京鉱路学堂で、クラスの中で年が一番若いにもかかわらず、常に一番の成績
( O& |# X/ w9 _4 C6 O; V* nを保っていた 14
! T% q) e7 S, h+ i5 P, ?" _。このように魯迅は、小さい時から塾で教わった豊富な漢学の素
# D' |" E4 ?  K+ n; J# K9 x養と南京鉱路学堂で身に付けた自然科学の知識によって、弘文学院での日本語
, f3 G. E/ A# P! F  p+ C: Lの勉学はうまくこなせてきたと考えられる。そして魯迅の日本語教師であった
7 }- Z$ r/ Z5 q! u* B松本亀次郎の回想によると、魯迅の日本文の翻訳は最も穏当かつ流暢なので、
6 c% s/ {7 a3 ]( |7 c「魯訳」と言って訳文の模範とした 15$ Y% c0 V9 f$ @8 ^' @/ \
。ここから魯迅の弘文学院での優秀さがう
0 K1 L& s* t2 g' w) j4 l  qかがえる。後に、仙台に着いた直後に旧友に宛てた手紙の中にも「教師の言う$ W5 T8 X& p+ Y5 T
ことはよくわかります」16と、魯迅の二年間の日本語学習の成果がうかがえる。) Z! n1 J+ x4 {8 h
弘文学院での最初の二年間の生活は、魯迅の心の葛藤として、自分自身に対$ ~/ X+ d* V! m2 X/ D. Y9 V' r
する自負心と無頓着な自国人への歯がゆさを感じ、こういう環境から抜け出そ- H, C4 ^' t0 Y& Y: L* `
うと、同国人から遠ざかる行動をとったのではないかと思われる。しかし、仙
; y) J0 Q$ }' D/ m  ~8 C' ~台での幻灯の中に現れた無自覚な中国人によって衝撃を受け、中国人の精神を6 E; T+ L5 N; C; Z
向上させる「文芸を勉強することに決め、中国の馬鹿、大馬鹿どもを医学でな$ J5 y7 D; k, v4 a
おせるか」
' A# O* E* Q, v3 C2 Z17と嘆いて、医学の勉強をあきらめ、国民性改革のための文学に身を4 t7 V8 }- R, m; P9 v
投じた。6 B( [, f" N# G+ \3 O
2.魯迅のなかの日本
; q+ K% H/ H- y) M+ E  ?岡田英弘氏は、「魯迅のなかの日本人」において、異文化接触によって生まれ* @) y; b1 l. t/ L( i. |
るカルチャー・ショックにはふたつのタイプがあると述べる。「一つのタイプは、/ G5 S9 o! e7 a, N* P0 L
同国人どうし固まりたがることで、もう一つのタイプは、逆に同国人を避けて、) \/ {0 z$ n) H7 s
その土地の社会に同化しようとすることです。」そして、魯迅はあとのタイプに5 a& A* j+ x# @3 h  m7 ?3 ?! x
属し、同国の留学生を避けるため、わざわざ中国人のいない仙台に行った18
( p: |. j% u5 L" |
0 W2 Y& Z& T( G/ o% @弘文学院時代より、周りに中国人留学生がいない仙台にいる間、魯迅の日本
# D" Q2 X# G7 T( j2 B" vに対する認識はより一層深まったと思われる。弘文学院では、どちらかという
  z8 g9 j' f" p# Nと、日本にいながら中国人留学生とのかかわりの多い環境であって、身近に満魯迅の日本観 53
! }6 f  i6 W- u! o0 ?/ |1 S( A州族がいることによって満州族の抑圧からの漢民族の自立を意識した。それに
& }% w$ `3 u3 W0 O, j6 y+ j& O対し、仙台では日本人に囲まれた環境にあって、時には日本人の立場から、自' u+ n: J' w# g4 O1 S
国・自民族を眺めることがあったのではないかと推測される。+ g) J1 \/ g1 x) x( N- K- `
文明の遅れ・国家の存亡・民族の将来などの危機意識を主内容とする母国観
5 X  P# ?3 Y4 W! L* c  |  Y5 V; n2 xは、魯迅を含む当時の清国留学生たちの多くに、共有されていたものである 19
/ Z% }) n& x9 {0 M* G6 G3 E
3 G$ }' B& q1 s, Y1 B+ Jそして中国と日本の落差をもたらしたのは民族性や国民性の問題だと魯迅は強
) Y: G- V0 C" O2 |3 X( Bく感じ、国民性改革を主張するようになる。「知識救国」の仙台医専における勉
3 ]" H) x" U# G/ o2 v強の中で、ノート事件・幻灯事件 20 によって受けた衝撃は、魯迅を医学から人
4 `' j: B/ [8 R$ vの精神を変えるための文学に転じさせた。しかし、仙台では不愉快な経験があ: T5 u# D1 N$ l3 c1 g
る一方、生涯師と仰ぐ藤野先生に対する思いは、魯迅の中の日本のなつかしい
$ V& h: p- N% Q/ c* a, t' Q& }% B* z良い部分を支え、後の魯迅の日本観に大きな影響を与えた。
4 ~. z" _: Z8 j9 R" o: n# R藤野先生から日本人の仕事や学問に対する熱心さと勤勉さを感じ取り、後に
, |0 x2 q! C' N日中戦争の険悪な状況の中においても、魯迅は「日本の全部を排斥しても、真7 Z- h2 R& ~* E1 k) [) D
面目という薬だけは買わねばならぬ」21と言っていた。そして、魯迅が五十歳に
2 l! P8 \$ t5 ~# Iなった 1931 年の3月から 12 月までの 10 ヵ月間、毎日午後 3、4 時間、増田渉9 L$ q/ w2 m6 J  R( o% E% g
に自分の著書の『中国小説史略』や小説『吶喊』『彷徨』などについて講義をし、
7 J3 p& G' T/ p質問を受けた。内山書店の日本人店員鎌田寿の「魯迅と私」22! p5 C# ~( a# G: l
において、「増田5 s4 p# Z1 Q$ `0 ^% v' u
氏がこのように話したことがある。<私個人から言えば、今まで付き合ってい/ z2 [# q/ h) u! i$ V+ O0 \* ?
た人の中で、もちろん日本人も含めて、いかなる人と比べても、私は魯迅を一
: g/ C" N2 D; [% G; w, b) S( ]- H番尊敬し、また親しみを感じる。>私もまったく同感である。」と言っている。
! L" ^. w: `, R+ v) y魯迅は、藤野先生からうけた生涯忘れられない援助を、自分の日本留学時と同  n' l4 i/ W+ U8 k$ r) H+ X
じ年頃の日本青年増田渉に、注いだのである。
, ]5 B; a0 X. \/ b' L$ d8 T( h  { 魯迅の日本留学中、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じ9 d! r# W' c9 i* w; V+ y0 v
たと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じと
$ W0 j7 c- F' q2 X0 bったと思われる。2 I" U+ L6 ~$ m+ b+ ?: z
魯迅は休みに仙台から東京へ出た途中、水戸で朱舜水の遺跡を訪れた。泊ま3 l0 U* Z) g) {" v6 J
った旅館で、中国からの留学生だと知り、手厚い待遇をうけた 23) d6 l. P3 u7 e+ r
。また、ある日4 |; s+ V) Q& u$ g, U
東京から仙台に戻る列車の中で、老婦人に席をゆずったことをきっかけに、魯
2 t+ i! C7 G# G/ w) o/ c) s' \迅は老婦人と雑談し、さらにせんべいとお茶の差し入れをもらった24
$ A; G/ d: {) W$ s: T, P
/ `: R- G* B# m6 I* A6 H このように、日本人との日常生活における素朴な触れ合いに関するわずかに5 P8 @  D: N; @( W
残された記録は、異国における魯迅の生活を物語る。それは魯迅にとって、た
0 `, e. Z# `: T/ ?7 z& B. H8 Tぶん忘れられない経験であり、魯迅の日本観の一部を形づくったことは否定で54 孫 長虹
8 s: Z9 i! _7 s- g3 x( Rきない。魯迅の日本で受けたこうした好意が彼の中のなつかしい日本の一部分4 t2 u% m6 r  i$ w) M, X" n1 `" S
となり、後に中国に来た自分の日本留学時代と同じような立場にある多くの日
4 B1 v) S. s' u+ t1 Z本人と親交を深めたのは、恩返しの気持ちがあったと見ていいのではないか。
5 ~! u. B' m9 q' X 魯迅は日本での多くの留学生が違和感を覚える日常生活において、中国風の
0 {6 X) E) l$ d4 o( ^生活様式にこだわらず、意識的に日本風の生活を送ろうとしていた。
  G: U6 T6 R6 \) k8 |* n! M1902 年、魯迅は日本に着いたばかりのときに、弟周作人宛ての一通目の手紙* v. d/ W2 d9 G9 j$ k
で、「こちらでは皆、床に座る習慣だ」と半ば驚きをこめて書いている。はじめ. \# a* j' W1 I! M/ b7 F
ての異文化に対する違和感を覚えたことが感じられるが、その後の魯迅の生活
% V  T( u+ b; D+ Z& ]6 H7 G8 D2 lは、日本の文化になじもうとする姿勢が見られる。  w6 s6 D6 `1 K* B- p
仙台医専の下宿では布団に寝ていた。再び東京へ戻ってきてから、いつも和$ w" _$ J1 B. W9 ?4 g6 `
服姿であった。弟の周作人の回顧録によると、出かける時は袴をつけ、鳥打帽3 I# L5 i) x) c# m3 \8 j* ]0 H
をかぶって、多くの留学生が履かなかった下駄もよく履いていた。また他の留
( a- J- E* K/ J4 K, V学生が畳の上に座るのに慣れず、テーブルや椅子を持ち込んだり、ベッドがな: `% B0 [' ]* B2 z) w  y
いことに閉口して、押し入れの上段を寝床にしたりするのを、彼はいつも嘲笑
8 K, A7 T% d; @' [+ q5 Z- {* cしていたという。また中国の食材を扱う雑貨屋で売っている中国風の食品を一
# O4 y/ \& E) ^9 [# U: y. u6 F度も買ったことがなかった。仙台にいた時、よく芝居小屋の「森徳座」へ歌舞
; X) q0 J. N) T4 @$ B伎を見に行ったり、弘文学院で、正課ではない自主選択科目の柔道を選んだり
) f$ v, u6 A( z/ c9 Kしていた。
( [7 w# D/ T" ^2 Q" h  R( e: Y また、内山完造の記憶によれば、魯迅の息子海嬰の衣服はほとんど日本製で/ Y5 W, t# |; R+ Z
あった。食物においても色々の薬品類でも、多くは日本品を使っていた。また1 }0 o4 b% q5 J2 e
日本製のチョコレートをわざわざ買いに行ったこともたびたびあったそうであ0 P, D. e% C7 V+ ?
る。1931 年の満州事変、さらに1932 年の日本軍上海進攻により、中国国内の抗
$ L( C7 z9 t& g2 a' f! P) P日意識が日に日に高まり、日本製品に対するボイコットも盛んに行われている# Q2 |- c) \, z) p+ T' d; d, x0 r
中で、魯迅はやはりこよなく日本のものを好み使っていた。七年間の日本での' e% l+ O; a4 W" ?- u( S
生活は、少なからず魯迅の中に、日本に対するある種の愛着を定着させたと言
4 r6 K% Y! L- i1 H: O; Dえよう。2 G4 ?0 |- B* c& I
魯迅は中国で多くの日本人とかかわりをもって、お互いに信頼関係をきずい# N5 D6 M# o* j% ]9 H' b& i9 e
ていた。魯迅はその死にいたるまで、日本及び日本人に対して、日本留学経験
8 B" e2 X2 ]; h& d: v* Oによって生まれたある種の信頼と愛情を持ちつづけていた。魯迅は中国に対す5 `/ h: c; ^; w4 b0 H6 Y3 y! v
る日本の侵略という国際情勢の中で、相互理解の難しさを感じつつ、日常生活
. j* z% s( C. mにおいて、一般市民としての日本人との往来をやめることはなかった。日本人
, ], f6 z. f3 @# T2 ~の須藤医師に診療をまかせ、日本から事実上の亡命をした文学者の鹿地亘には、魯迅の日本観 55
# ^, o- s9 U% @( ]生活を助けるために執筆の援助をした。晩年日本人と親しすぎる、「漢奸」と言( P% Z0 w5 h& g; r: N$ S  t
われたこともあった 25& Y" \1 }4 Z" k4 ?

. h) z: E& V. ?/ n: O8 c 一方、魯迅は日本を非常に愛していると同時に、中国に対する日本の侵略を
& B8 }8 S9 P: @! o; N7 A大変憎んでいた。魯迅は日本・日本人のいい面をきちんと認めたうえで、当時2 X% j% g: z! D0 {8 b6 {
の国際情勢の中で、双方の境遇と生活環境の違いによって、相互理解の難しさ
" d9 o8 B; }; h2 `$ Bをつくづく感じ、一部の日本人に失望をいだくようにもなった。1935 年に、日1 G2 d/ D" [4 B: b! l3 a4 y5 j
本の作家長與善郎や詩人の野口米次郎と会った後、魯迅は彼らが日本の新聞に7 A6 n. m% _# p9 N$ v) w
書いた会見記に強い不満と不信を示した 26
! R3 Y) N; h. G9 @( ~( O。1936 年 2 月 3 日の増田渉宛の書簡8 B# o; M7 Z' i! |# d
に、次のように書いている 27
- y1 H: h+ w  s
, u% d5 Y. V8 O6 n 名人との面会もやめる方がよい。野口(米次郎)様の文章は僕の云った全
2 i5 `" V9 ?- {* q  v2 D9 V体を書いていない。書いた部分も発表の為か、そのまま書いていない。長
# j/ a, _% m7 H與(善郎)様の文章はもっと一層だ。僕は日本の作者と支那(中国)の作. ?3 _1 e+ U* ?
者との意思は当分の内通ずる事は難しいだろうと思う。先ず境遇と生活と' L* q! k0 y- W8 q9 |! O& _* H( d
は皆違います。# f! y& H& [+ E# ^1 r0 @) Y
「私は人をだましたい」28 という日本語文章の中では、「悲しいことに我々は7 Z8 \, a+ S$ m3 M! x) L+ j8 S
相互に忘れることが出来ない」、さらに小林多喜二の死を悼む文章では、「日本9 M+ J& \; T$ k* U. Q
と中国との大衆はもとより兄弟である。」
7 i4 K- o% |  ]6 @& \29 と、魯迅の日本に対する複雑な心境- z0 C3 r8 W) l# f' P5 d0 q
が述べられている。そして、「排日の声の最中にあって、私はあえて断固として
, q9 [6 x9 o# l- B1 v6 U中国の青年に忠告を一つさしあげたい。それは、日本人は私たちがみならうだ/ A! `# L( y- {  _7 b9 K
けの価値があるものをいっぱい持っているということだ」30
0 c' S* w( T8 O  I% R/ ^1 Wと、嫌なことだけ見! `8 x% z5 d% q
て日本人を嫌ってもいけないし、日本のすばらしさばかり見て日本は優れてい
# B4 ~" f) S' Xるというふうに思ってもいけないと、日本留学の経験があったからこそ、魯迅1 Q  f2 u. |  x; B! s9 d: @
の客観的、冷静なものの見方があると思われる。2 b4 W8 `" \. ^5 K, x" D( S7 x- t
一つの物事を見るときに、一般論は危険であって、冷静に見分ける必要があ
* L: S0 @9 n6 |3 ~ると、魯迅は自分の日本留学経験によって、客観的な方法論を提示したのであ7 [7 z, |* Z: s6 x" l( }: K2 @
る。
7 I7 t' g5 u) V  v3.魯迅の日本認識のありかた ―― 周作人との比較
" }" W- L3 |9 [: J同じ日本留学経験者、そして日本に着いた当初から日本の生活が好きになっ) b  o: r8 {$ M( l5 y9 W
た弟―周作人と比べて、魯迅はまず日本の生活習慣に戸惑いを感じた。同じ清
; Q* I. z/ O3 W7 x国から来た留学生の振る舞いに嫌悪感を覚えると同時に、仙台での日本人学生56 孫 長虹
3 W( Y1 u; v+ @( N. j2 aに対し、“アーリア人(民族の優越を誇る人たち)”と呼び、日本人学生の思想
, b2 Z/ ]) ?. ]9 W& r  F+ `や行動は、決して我が中国青年の上にありはしない、そして気持ちの慰めとな: h; [: Q/ K/ N; a7 n" H
るのは旧友からの手紙であると、仙台医専に入学して一ヶ月たった時の友人へ
: ^8 `+ f% T+ w- D) G! G! }  r* @の手紙の中で書いていた 319 C% c: U6 R; A( K$ e* b! f% L
。魯迅は幼年時代から古い型の教育をひととおり受け( ]/ M6 x- r$ Y+ ~
た。中国の古典、また科挙を受験するための訓練を受けた。魯迅はこれらの教% n3 f, Y4 d4 `6 O
育に批判をもったということもなく、むしろ学問に熱心だった。そして、少年
, r  H5 ]6 Z" \/ e+ z時代から魯迅は中国の神話、伝説、小説を愛読した。書物の中の怪物や神秘を
0 A4 {2 ~: ?+ e0 G) H育ててきた古代中国人の奔放な空想力、原初的エネルギーの中に、中国人の生
" O$ J& F. B2 V5 }' ?4 }きてきた風土と歴史、さらにその底に流れる中国民族の生命力というものを感% H7 E8 q4 C' n; W+ E( T
じ取っていた 32。したがって、中国の伝統文化の影響を受けてきた日本に来て、
  V/ M* z8 U- B  Y" b- Q) v# t魯迅は文明大国―中国国民としての自負を、心の底に秘めていたのではないか
- I4 {5 ?! v5 G3 T6 M8 w. Rと思われる。
8 i% g1 \# H/ b' r) t魯迅は日本で日本の生活様式にしたがって日本式の生活を過ごしてきたが、
/ Y1 f. v( o& F日本の生活に愛着を持ち日本での生活を楽しんでいた周作人と比べれば、日本
4 i6 O3 F/ n0 z$ M. j0 ~文化への理解は、「日本通」と呼ばれる周作人ほど深くはなかった。
% S4 j2 j8 O' T' b魯迅は周作人のように、日本に着いた当初から日本の文化に興味をもち、日
" }6 @1 N3 ]  q& K( F. r% e. [本での日常生活を楽しんでいたとは言えなかった。魯迅は性格的に人との付き- m6 M& o  q0 i& a/ ?1 |+ u
合いを好まず 33
$ n) v! f7 t; |5 D2 @、許寿裳の回想にも、日本での魯迅はめったに遊びにいかなかっ
5 _- }' ~- C! H9 r  ]+ y6 Vたという 34) L' w& m; o: S5 [9 _  }
。このように日本での生活に意識的にかかわりを持たないため、7年+ e3 n/ @5 C& m# h% v
間日本滞在経験のある魯迅の日本留学は、兄に四年遅れで日本にやってきた弟
& ?: ?- U" |3 B" T9 i9 b/ m7 l% Y# aの周作人と比べて、日本文化の理解に関する示唆を多く残していないのである。
) i% Q$ y7 e$ a7 D中国の「日本通」と言われる周作人は、『知堂回想録』35 において、次のよう* R. P8 r2 t2 z) y6 N% d0 @
に述べている。- S( i5 [: @6 {0 s) z7 i
人がはじめて外国に行く時、もっとも興味を感じるのはそこの人々の独特. O$ p- L" Z+ E0 i: A1 ]
な生活習慣である。(中略)その時不思議に思うこともあるが、それは二の' d+ w& C* u, ?7 G- W
次のことであろう。" I* t5 k* o$ c- d0 ?
周作人が日本の日常生活の衣食住にはなはだ愛着を持ったのは、一つは個人
3 M" K* n5 b- R' ~  w( P% t3 Cの性分、もうひとつは思古の幽情―つまり、日本の生活に中国の古俗が多く保
$ v" l/ K8 h/ u6 r; V) c+ t9 m. P存されていることに親しみを感じるからだという36  l- S& C% |$ Z! T
。魯迅の挫折・苦渋に満ちた
1 k& t' Q% A+ t' Q5 T5 C+ d日本留学と比べて、周作人は魯迅の世話によって、愉快に暮らしていた 37。東京
5 \: m5 y9 w, i, l' z; V生活のすべて、とくに衣食住を含めた日本の生活・文化の簡素さ、清潔さ、こ魯迅の日本観 57
7 H8 @& H- u: ]まやかさ、さらに日本人の人情美といったものが彼の性分と融けあい、彼の日( j' o5 u9 h3 s0 N$ I8 }. n
本への愛着や嗜好をはぐくんだのであった。
( D- B: I  Q; @. l日本文化を愛着するが故に、彼はその価値や長所をできるだけ認めて研究に6 J3 l6 l. ]% |
努めた。( R4 d* w2 x8 W5 B8 G5 b
周作人は『縁日』において、一国の文化を理解するには、民俗学から入る必8 c: R5 P  G3 O! o
要があると唱えていた 38
: E6 q0 E2 U! U* ]- K, d* h* a, b: J$ e6 {1 k9 X+ T# G
一国民の、それもとくに外国の文化を理解するのに、単にうわべを眺める+ i$ [& X7 w) h; q5 W% k
だけでは駄目だと思う。その感情生活に着目し、自然と人生に対する態度9 G6 a! f) R. c" b5 Y
の幾分かを理解することができてはじめて、少しでもわかったといえるの% W( F4 v- |9 b) L+ @
である。. \/ {0 d: \7 r7 p5 f
私はかつてつねに文学美術というものを通して一国の文化のあらましを
7 L* b  z( A* U, d垣間見ようとつとめたのであった。結果は何も得るところなく、徒労に終
5 o4 W0 D/ C( m. M- C4 o5 S! Cわった。……民俗学から入ってゆくほかないのであった。
- X5 O" U) J9 O( \もしも礼儀風俗を中心に据えてその自然ならびに人生観を探り、さらに
/ f: q6 B" L" S! ^3 U" D進んで宗教情緒を理解するところまでゆけば、ようやく六七分の目鼻はつ/ ]( S+ w6 a" G( G6 i
いたことになり、その国の事情を納得しうる希望が出てこよう。
" t; T2 C3 M( k& N  } 民俗学というのは人々の日常のもっとも普通の生活様式・習慣であって、そ" [& Y5 [# Z  Y1 ?
の文化の真髄は人々の普段の生活の中に現れているのである。周作人は日本に1 I- Q9 X& |) v' J
ついた当初、日本の生活文化に愛着を示し、それが彼の日本理解の原点であっ! e! w' D! p) i. E
たと思われる。周作人の日本理解は、日常生活における特徴から日本文化を語
# J3 W- N6 u; |り始め、さらに進んで日本人の感情を理解するための手段である宗教まで論じ、
$ @. h' N6 d9 [" I- @表層ではなく、深層の日本文化の様相の理解の仕方を提示している。
$ f1 v/ a" D7 h7 w9 }( R5 Z魯迅は周作人のような日本文化に対するはっきりとした見方を示さなかった。
& _/ ~* ]* o9 v' R" Fただ魯迅は後に、内山完造作『生ける支那の姿』という本のために書いた「序」4 A# o# x; {. w& D# d" J
39において、外国理解のしかたをこう述べていた。* a4 z: G: H  m3 m9 M2 d: i
若しくも永く或る土地に生活し、その土地の人民に接触して殊にその人民- G. c7 q# o3 r& w+ W
の魂にふれ、且つそれを感得して真面目に考えて見れば、その国を瞭解す
) a$ F1 h9 k0 Y  ^1 _  hることはあながちできないことでもあるまい。1 I0 G5 K" d% H1 Q6 r8 T* \
魯迅のこのような認識方法は、周作人の日本認識の仕方と相通ずるところが  j- G. S" v3 L( F
見られる。魯迅は、中国に帰ってきてから、日本に対する郷愁を示し、日本の
: [. I6 r- O% I, M+ V0 i$ E友人に宛てた手紙の中で 40, B+ \& \; ]5 `0 }( R4 L: G
、日本を思う心情を述べていた。しかし魯迅が日本に58 孫 長虹9 ]7 X/ ?' L, g; ^* J" f
留学していた当時、魯迅はこのような日本に対する理解の方法を多く行うこと' k2 A/ \9 k6 J5 U# M. p
はなかった。5 s  M6 o# k# [; }# }& ]2 D6 k
周作人のような日本認識は、時代を越えて異文化認識の方法として、今日に
2 L/ g5 D( {+ p( rおいても大いに価値があると考えられる。つまり日本認識の視点として、自国
" `9 y8 d) W6 u4 G3 r* J8 S0 tの固有観念から抜け出し、日本人のごく普通の生活から日本の情趣をみいだし、/ A8 d5 G& |8 b: l6 N  L2 s
そしてその奥に隠されている価値体系の理解をはかることが、本当の文化理解8 |3 D  g, L: `0 y6 x' L$ j; X, U
につながることを提示している。
  z8 S* ^5 V+ `4.結びに - x+ l6 c( U+ y9 D, q# Q" |
魯迅の日本の風俗、日本文化の特質に対しての認識は、弟周作人のように多
* y* n1 t. y  v9 C% C4 X8 U3 Oくの論説は残していない。しかし、魯迅のように、異文化環境において自己認
  ?! z7 B, r, Q% l9 Z; N識を通じて異国を理解し、さらにはその理解を通して自己省察を深めるという6 z, U, H* R/ s& i9 n
点においては、深い意味がある。国と国とのかかわりがますます多い今日の国
! X' L7 q5 ~. a" \9 N% ~$ x際情勢の中で、いろいろな摩擦や衝突がおき、自分の固有の観念によって、相
  n% h* R" ^; w) j手を認識するだけではなく、相手の立場に立って、自分をもう一度見つめなお
4 d$ }& \" _! [すことは、大きな意義を持っていると言えるであろう。
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发表于 2013-8-2 00:59:39 | 显示全部楼层
鲁迅毕业于仙台东北大学的吧?
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